ヒラリンの心理研究室

人の心理や行動って不思議だと思いませんか。人の心を解き明かします。

互酬原理

心理的負荷が掛かり、相手に対して負い目の感情を抱く事がその根本である。ハフツー意識と言うか、義務感のような心理が生じる。それは社会的契約の意味合いにおいて、その共同体に属する人たちが共有しているであろう倫理規範や道徳感情を、原環境成員や成長していく過程で出会う人々により、刷り込まれるからである。他者との関係や影響度合いにおいて、原初の自己認識が構成されていくのは言うまでもない。

重要な視点として権力の行使の意味がある。過剰に物を与えるか、相手のためになる事を積極的にしてあげることにより、相手に恩、あるいは負い目を与えるのであり、そこにおいて相手に対して絶対的な優位性を確立することになる。もちろん相手が拒否しない限りではあるが。これは相手に掛かるであろう、心理的負荷を計算に入れると、もちろん相手の人格次第ではあるが、かなり相手のマインドをコントロールすることが出来るようになる。

持ちつ持たれつやギブアンドテイクといった言葉も互酬原理を反映している。基本的には権力意志の投下であり、相手に対する影響度を高めようと(無意識に)画策していたり、優位性を誇示しようとしていたりする。与えるというのは、愛情表現でもあるが、それよりもむしろ権力意志の投下である。相手を心理的に制御し、服従させたい意志をある部分反映させている。

しかしそれに対し居心地を良く感じて、感謝や嬉しさと言う感情で包まれるなら、もちろん相手の愛情を、その具象化であるギフトの中に認めている。つまり人間の心理は単一・単純にはいかなくて、ある行為一つをとっても、その内発動機において、複合的な要因で占められていることが多い。相手に対する贈り物の意図として、全て打算ではないし、全て愛情ではない。意識では理由を見つけているが、無意識の所以の方がはるかに大きい。

具体的に感謝という感情を述べる。相手の自分のためを思ってしてくれた、ギフトや事柄に対して、相手に負い目・心理的負荷を抱くことである。また嬉しさ、愛情、ありがたみ、驚き、さまざまな複合的な感情が生じるだろうし、もちろん前提となる相手との関係性に大いに左右されるのは言うまでもない。そして何らかの感謝の言葉や、返礼の贈り物により、互酬性の原理に基づいて、負い目は払拭あるいは消化される。この一連の流れが互酬性である。愛情という名の権力の行使に対して、こちらもそれに対応した仕返しをしないと、心理的に落ち着かなくなる。その原理、それは相手に強く影響されてしまっている状態で、自分の平穏な心理状態を見失っているからである。

次に挨拶を述べる。挨拶も典型的な互酬原理の発露の表現であり、挨拶した側は、相手の返答がないと不安になるし、またされた側でも、あえてせずに無視すると、(人にもよるし、関係性によるが)相手の心証を忖度し、どう思うだろうかと不安になるであろう。つまり権力意志投下が第一義の挨拶の意味であり、次点に好意的なアプローチや働きかけである。

最後に謝罪を述べる。これは自分のしでかした行為や言動で、相手が不愉快な思いをしたり、損害を被ったりした場合に生じる、心理的負荷や負い目、罪悪感の事であり、引き起こした行為において、全て自分の責任であると信じていればいるほど強く生じる。故に謝罪の言葉を投げかけ、居心地の悪さを払拭させる。互酬は等価交換としての原則を持つため、相手に酷いことをし、強く迷惑を掛けたと思えば思うほど、申し訳ないと言う罪悪感の程度が強くなり、必然謝罪のレベルも上がってくる。ある程度等価交換の原則に応じた、適切な謝罪をする事により、互酬性の負い目は解消される。

 

 

真実とは

真実は文字情報の抽象性のフィルターを介した上で、それに表されている情報を解釈する事を含意し、つまりその文字情報が、それだけ正確に精密にありのままの事実を反映しているかに由来する。文字に限らず言葉においても、人間に活用される情報媒体は記号であり、何かの代理機能の役割を持つものであり、それ自体を正確に表しているわけではない。それぞれの概念や存在における、不要と判断した要素を捨象し、類似的要素を抽出して、抽象止揚化するのであり、目の前にある事実を構成している諸要素をそのままそっくり体現しているわけでは無いのだ。つまり真実というのは人間の情報空間に由来する概念であり、文字や言葉、あるいは何らかの象徴記号、こういった特殊な伝達システムに依拠する概念なのである。要は何らかの意味づけが付与されており、それゆえ個別にある程度自由な解釈を許す、そういった特性を持っている。

事実と真実の違いについて詳しく述べよう。事実はファクトであり、実際起こった出来事、それゆえ誰がどんな角度で見ても、全く同じ結論が得られるという事。文字や言語の情報処理のフィルターを通す必要がないのは、個別の知識や認識体系を前提としないからである。知識などのバイアスを通すと、そのバイアスの歪みの効果により、記号としての言葉は、都合よく恣意的に歪められて解釈されうる。要は人それぞれのバイアスはそれぞれ違うので、情報処理内容に対して、独自の解釈が可能なのである。それでは客観性が担保されないし、事実の定義を大きく損なう。

対して真実とは抽象度の高い記号を媒介とするので、そこで言い表されている情報が、実際の事実を反映しているか、定かではないという事。ただ定かではないが、本当である、偽りではない、正しいという意味付けが付与されている。だが真実には常にその背景に、嘘や偽りが念頭に置かれていると言っていい。なぜなら偽りの対義語としての真実があり、この世の全ての言葉や文字の意味が真実なら、偽りのワードは発明されないからだ。重要な観点としては、表されている意味内容が、どれだけその言葉や文字の意味通りに、忠実なほどに、具体的な実際として体現されているか、あるいは過去において体現されてきたかという事で、要は一致である。真実の真意は、実際や事実、あるいは具体的な認知対象に、どれだけその表現されている意味内容が一致しているか、そこにかかっていると言っていい。

一つ例を出そう。例えばある歴史的出来事があり、それをどのように、どの視点から解釈するかによって、人により様々な判断がなされるであろう。ある人は真実であるといい、ある人はフェイクであると言う。これはバイアスの違いによる恣意的解釈の余地のためであり、個別自身は自分の見解を真実であると信じている状態だ。このように文字を通した解釈になると、それぞれのバイアスによる認識差異により、真実は全く違う形で顔を出す。

 

 

 

日本人が「出る杭」を打つ理由

日本人は出る杭を打つ!

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良く言われることですが、日本人は出る杭を打ちます。

オンライン上で見られるデジタル大辞典では、

 

 才能・手腕があってぬきんでている人は、とかく人から憎まれる

と書いてあります。

これは日本人の民族性を的確に言い表していることわざの一つですが、どうして日本人はこういう心理に至るのでしょうか。

一つの理由として日本人の横並び意識、二つの理由として日本人の嫉妬心の強さ、三つの理由としてコンフォートゾーンが崩される恐怖、四つ目の理由として集団サディズムがあります。

一つ一つ見ていきましょう!

①日本人の横並び意識

一つの理由として横並び意識の強さにあります。平等志向と言い換えてもいいですが、これは他人と立場や境遇が同じとするならば、同じ利益を享受する事が出来るという思い込みにもつながります。

そして「出る杭」は能力そのほかが抜きんでているので、同じ立場なのにより多くの恩恵を受ける事になる。これは憎らしい。

こういう心理プロセスが出る杭が打たれる一つの理由です。

②日本人の嫉妬心の強さ

ところで嫉妬心は人間は誰でも持ち合わせている感情ですが、特に日本人は平等志向の強さから、人に嫉妬を覚える程度が諸外国の人より強いです。

皆さんも人は人、自分は自分と割り切りたいが、なかなかうまく自分の感情をコントロールできず、例えばSNS上の知人や友人に嫉妬心を覚えた経験はある事だと思います。

つまり現代社会は人間の動きがSNSを通して可視化されるので、非常に嫉妬を覚える時代になっています。

そう考えればKY(空気が読めない)という言葉も、「出る杭」に対する嫉妬の表れの言葉かも知れません。

皆、自分と同等のレベルでいてほしいし、他人にむやみやたらに羨ましがりたくないのです。

③コンフォートゾーンが崩される恐怖

ところでコンフォートゾーンとは耳慣れない言葉かもしれませんが、単に自分にとって居心地のいい空間の事です。不快や不安な気持ちにならない雰囲気や状況が前提です。

しかし「出る杭」がいると、その人間に影響されて快適な空間が崩されてしまいがちです。自分より能力がありできる人は、とかく自分の存在価値を脅かすものだからです。それゆえの自己防衛手段として、その相手を憎むようになり、場合によっては排斥するようになるのです。

④集団的サディズム

そして横並び意識の強さは集団志向へとつながり、異質な人間に対する集団サディズムへの契機となります。

日本人は集団でいる事の方が個人よりも数段価値が高いと見なされ、集団になると、気が大きくなるというか、変質する場合があるのです。

これは個人ではできない事でも、集団に帰属する事でできるようになるという事でもあります。

いじめが一例ですが、「出る杭」も場合によっては、鬱屈した情念の塊の人達のターゲットにされる場合があります。

出過ぎた杭になれ!

出過ぎた杭は打たれない」これはかの有名な松下幸之助さんの名言です。

出る杭は中途半端に目立っているので、他の日本人の怨恨を買いやすいですが、圧倒的に傑出してしまえば、逆に認められるようになるという事です。すご過ぎて逆に特別扱いされるという事で嫉妬の対象から外れるという意味なのです。

出過ぎた杭になろうとするには勇気や覚悟が必要かもしれません。

KYや偽善者などの非難や中傷で、人々の嫉妬や妬みを買いやすいのも確か。

しかしそれで満足に生きれますか?と言いたい。

死ぬ間際に後悔する事として、もっと自分のやりたい事をやればよかったと語った人が多かったという研究があります。

自分のやりたい事を人の目を気にせずやる!というのが長い目で見れば幸せなのです。

皆さんも日本人式に目立たずひっそりと周りに合わせるより、その逆にアホほど目立つ・抜きんでるようになりましょう!

 

 

 

日本人は何故年齢で人を判断するのか?

日本人は人の年齢を気にする事が多い!

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ネットとかで見るとやはり日本人は人の年齢が気になるものですね。

私の周りを見回しての実感としてもそうですが、一体どうしてなのか?

フリーアナウンサー楠田枝里子さんもこのように言っています。

今回はその謎に迫ってみたいと思います。

 


 

結論から言いますと、相手の年齢を確認する事によって、相手と自分の関係性がある程度可視化されて、安心するからです

日本人の組織や集団は上下関係が厳しい所が多く、上・下の地位や立場によって態度を使い分けます。もちろんフラットな雰囲気の職場もありますが念のため。

そして年齢が上の人は、立場が上な事が多いので、相手との距離感を上の立場を演出する事によって図れるのです。逆なら同様でその場合は、丁寧語や尊敬語を使って相手への尊敬の念を表します。いうなれば先輩や上司や部下の言葉もありますように、相手との上下の関係性で人を把握するのが日本人の習わしです。

でも年齢だけじゃないと思いませんでしたか?

確かに年齢は判断の目安であって全てではありません。人との関係の体のいい尺度が欲しい、それが年齢という事です。キーワードは安心です。

それでは人を年齢で判断する事による3つの理由を挙げてみます。

 

日本人が人を年齢で判断する3つの理由!

1:安心感を得る

先ほどから述べましたが、最も重要な理由ですね。やはり相手が何者かを知る為の共通の尺度として、年齢を気にするようになります。上の年齢なら敬語を使い、下の年齢なら敬語やタメ語と使い分けられ、接し方があらまし分かるのがメリットになります。

年齢による上下関係があらまし分かるので、ある程度接し方が確認できるのが安心という事です。

2:レッテル貼り

日本人は20代なら20代、30代なら30代と、年齢によっての固定観念が強いです。この場合は、○○であるべきや△△が普通といったような事です。

例で言いますと40代で独身なら普通でない、30代男性でサラリーマンなら普通といった感じです。

よく人生はレールに例えられますが、人を年齢でレッテル貼りする事で、相手は人生航路においてこの位置にいるなという事を確認するのです。

3:儒教の影響

日本人の思想や価値観に影響を与えている教えは色々ありますが、やはり儒教の教えが最も強いです。仏教や神道はどちらも日本人にとってのコアな思想ですが、現実的な側面や物の基本的な考え方になるとやはり儒教になります。

その儒教の教えの一つに長幼の序というのがあり、意味は年長者と年少者との間との間にある秩序の事です。

そして長幼の序の理屈に従えば、年齢で人を判断する事は、自然と育まれていきます。

 

日本人の年齢判断は時代錯誤!

はっきりいって、今年齢で人を判断したいる人はやめましょう。

何故なら年齢は人の属性の一部分を表すものに過ぎないからです。余りにも日本人は年齢での決め付けが多い。例えば40代で独身の男女を白眼視する風潮など。 

そういう事が自分たちの可能性を大いに狭めているという事に気付かないのでしょうか?

また時代は多様な価値観をどう受け入れていくかという時代に突入しています。これからの時代は他者の視点に立って物事を見る想像力が求められます。

 

どうでしたか?日本人が人を年齢で判断するのは、それなりの理由があってこそです。また年齢をお互い把握していると、年齢差に応じた対応をすることで、秩序を保つ事ができるようになります。皆さんの参考になれたなら幸いです。

 

関わってはいけない人たち5選!

関わらない人を選ぶ

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 私の考えですが、人生は一度きりなので、友人や仲間を選ぶ際には、当然自分にプラスの影響を与えてくれる人がいいです。

ただ人間の性格は本当にバラエティー豊かなので、社会には有害な人たちも多くいるわけです。

皆さんはどうですか?付き合っている人達はどのような人たちでしょうか。

ここでこういう輩とは付き合うなという性格を5選!ピックアップしました。

1ネガティブマインド

ネガティブマインドとは要するにマイナス思考の事です。

マイナス思考だと何でも物事を悪く悲観的に捉える傾向があるので、なかなか楽しい時間を共有する事は難しいでしょう。

あまつさえそういうマイナス思考に感染してしまい、自分も物事をネガティブに見てしまう癖が付くかもしれません。

もちろん人は誰でもネガティブに考えてしまう場合はあるものですが、それが行き過ぎるのは考え物だという事です。

やはり人間付き合うならネガティブよりポジティブな人ですよね!

2計算高さ

計算高すぎる性格というのも関わっていくには考え物だと思います。

要は自分の何らかのメリットになる人間だけ付き合うし、そうでなければ付き合おうとしない。そしてメリットがなくなったらあっさり裏切るでしょう。

自分の利益の為にどのように人間を有効活用するか、どうしても人を利用するという視点で見てしまうので、純粋さにすごく欠けるし、人間としての魅力も薄いでしょう。

もちろん人間生きていくにはある程度の計算は必要、ただ計算高すぎるのは良くないです。

3上から目線

そして上から目線、あるいは人を対等な視点で見れない人たちというのも敬遠したい。

体育会系のシステム的な上下関係とは別に、自分より上か下かでしか人を見れないという困った人たちです。

こういう人たちは自分より上と認めた人には平身低頭あるいは服従意識が芽生えるのに対し、下と見たなら上から目線で支配・抑圧して来るでしょう。

相手次第で態度をはっきり分けるというのもこれに当たります。

4怒りっぽい

誰だって人に怒られるのは嫌ですよね!?皆さんはどうですか。

怒りの沸点が低いとも言いますが、ちょっとした事でカッとなりやすい人たちも関わってはいけないと思います。

怒りは特に影響を受けやすい感情なので後あとまで響くし、いい気持ちがしない。

また衝動的な人間も同様で、理性で欲望や感情を適切にコントロールできない、もっとも敬遠したい人たちです。

5何でもかんでも批判

人間批判する気持ちは重要です。そうでないと相手に思うがままに言い包められてしまいます。

ただそれは自分の意見や見解に沿った形での批判という意味です。批判の為の批判ではありません。認める事は認める、批判する事は批判する、そういうメリハリが大切です。

何でもかんでも批判というのは、相手の言った事や行いをとりあえず否定・非難してしまう事で、こうなると一緒にいてもイライラする事が多くなるでしょう。

またこういう人達は内心では自信のなさを抱えてることが多いのも特徴です。自信がないから過度に批判、あるいは攻撃したがるのです。

 自分の気持ちに正直に

なるべくなら関わってはいけない・避けるべき性格を5選ピックアップしてみました。

皆さんはどのような感想を持たれたでしょうか?

ただ言えるのはやはり自分の気持ちに正直になって関わりたいか、そうでないか決めるのがベターです。

人間どんなに好きな人間でも少しくらいは嫌な所があるものです。

そして関わってはいけない性格の特徴であっても、何らかの要因で好ましく感じたりしたなら、やはり付き合っていくのも一つの選択です。

それは一概には言えないのが人間関係だからです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

心の闇について

心の闇とは

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マスコミの安直な使用

マスメディアが好んで使う心の闇という言葉。これを皆さんどう思われるでしょうか?

もちろん闇とは心あるいは感情の暗喩表現であると思いますが、何を持って闇というのか。適当に粗雑に解釈したがるマスコミの悪い癖なのでこういう言葉には引っかからないでください。

マスコミ批判はやめにして(笑い、人間の感情の嫉妬心や憎しみなど、特にネガティブな感情を心の闇という風に表現している感じがします。ただはっきりと具体的に言い表していないし、ぼかしているし、あいまいな表現です。

闇が表すもの

人間には当然心の闇がつきものです。この事に異論がある人はいないでしょう。

光があれば闇がある。ロールプレイングゲームの設定にもありそうですが、人間にはどうも二元論で物事を考えてしまう癖があるようです。

天使に対する悪魔、正義に対する悪という風に。そして心の闇も同様で心のポジティブで健康的な部分に対する反義語のニュアンスが強い。

その正体とは前述しましたように人の心の負の感情である嫉妬心や憎しみですが、他には無意識に抑圧したコンプレックスや欲求不満やトラウマ体験もあるようです。もちろん言葉自体に一貫した定義がないので、私なりの解釈です。

臭いものにふた

人間の性格の陽性である明るさや笑顔や人付き合いの良さに比べると、陰性である心の闇に該当するネガティブな感情は、多くの人にとって好ましいものではないでしょう。

臭いものに蓋をするという諺があります。オンライン辞書にはこう記されています。

 

悪事や醜聞などを、他に漏れないように一時しのぎに隠そうとするたとえ。

 もちろん心の闇自体に悪事という意味はないですが、他に漏れないように隠そうとする対象である事は一緒です。露見すると可哀そうやメンヘラなどと、言われもないレッテル張りの被害を受ける可能性があるからです。

しかし人間の心には明るい所と暗い所どちらもあります。性格的に明るく振る舞っている人だって、プライベートの空間だと悶々と個人的な悩みを抱えてるかもしれません。ただ人に見せない、それだけです。

自分の心の闇に気付け!

ここまで読んでこられた皆さんの中には、自分には心の闇なんてないよと思っている人もいるかもしれません。

しかし良くない印象の言葉ですが、誰にだって程度の差こそあれ心の闇はあるのです。

それは他の人と共有したくない個人的な問題であったり、引け目や劣等感であったりします。

またあえて自分のそういう嫌な側面を観ようとしない人もいるかもしれません。

しかし勇気を出して自分の心の内部に目を振り向けて下さい。

その場合自分に嘘をつかない、悲観的あるいは劣等的に捉えようとしないと心掛ける。

あくまで人間の自然的な性質の一環だと思えば、新たな発見があるかもしれませんよ。

 

 

 

正常性バイアスとは?

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人間の思い込みの危険性

ところで皆さんは正常性バイアスという言葉をご存知でしょうか?ざっくりいうとこれが普通であり通常であるという思い込みに捉われて、状況の変化に対応できないようなバイアスです。

例えば以前こういう大惨事がありました。

【御嶽山噴火1年】生還女性が初めて語る「あの時」 「焼け死ぬのか、溶けるのかな…」(1/6ページ) - 産経ニュース

2014年にした発生した御嶽山噴火では58人もの尊い人命が失われました。

不幸にも亡くなられた人の中には、火山が起こる可能性について全くそのリスクを過小評価していた人も少なくなかったかもしれません。あるいはまったくゼロで火山の可能性を認識してなかった人も。

もちろん何か物事に取り組む上では、起こると好ましくないリスクについての可能性を考え、準備や対策をするという事は大切です。

そうすればしなかった場合よりも、より適切に物事に対処できるようになるからです。

そして物事の正しい認知を歪ますような正常性バイアスの罠に嵌るような事も少なくなります。

ネガティブ体験の効用

人間は誰でも自分なりの思い込み≒バイアスというのがあって、その通常的な主観のフィルターを通して、様々な現象や物事を判断しようとします。

いわば誰でもある程度の恣意的なバイアスに支配されているわけで、裏返すと完璧に客観的な見方や観点はないという事です。

では何故悪くなるような状況の変化に対応できないバイアスが形成されるのか?

コロナ問題もそうですが、刺激に対する慣れというのもあります。

ずっと自分の身に問題がなかったのだから、これから先もないだろうというポジティブな経験に対する慣れです。

逆にいうと例えば自分の身内が感染したりすれば、警戒心や不安が醸成され、自分の感染リスクに対する認識は深まる事でしょう。身内の感染がコロナに対するネガティブな経験になるからです。

昨今のコロナ感染者急増の原因は政策の失敗というより、こういう所もあると思っています(20/11/29現在)。

 つまり人間はネガティブな体験をすれば、それに対する意識の高まりの為、自分にとって都合の良いバイアスから解除される可能性が高まるのです。

また自分のリアリティから抜け出し、多面的に物事を見る観点が生まれます。そうするとリスクの危険性を過小評価したりするケースがグンと低くなる事でしょう。

正常性バイアスの仕組み

私の見解では正常性バイアスは意識の心掛け次第では大分と減りますが、完璧にはなくす事は難しいです。いちいち物事の認識の点検をするのは脳に負荷が掛かりすぎて疲れるし、やはり快適な状態に保っていきたいからです。

また人間の認知の仕組みとして、過去に体験した様々な出来事より導き出され・抽出化された観念や概念、それらに基づく正当的な意味や解釈の方が、現前に展開する事象や物事の変化をそのままに認識しようとする姿勢より優先されるというのがあります。いうなれば意味や解釈のフィルターを通して、実際に展開する物事の動きや状態を推理・推測するのです。

こういう認知のシステムが普通に生きてる限りは機能するので、事前に得た知識や情報を元に構築される、(自分にとっての)世界に対する正常性をどうしても信じてしまうという事になります。

しかし前述しましたように意識するだけで大分変わります!

これを読んでおられる皆さんがこういった認知のカラクリを気付き、正常性バイアスの罠をなるだけ回避されるようになれれば幸いです。